#16 わたしとちょうのうりょく
             
    冬海高等学校。俺と楽弥が通う高校の正式名称であり、後に如月が転校してきた学校でもある。学区内のランクは中の上で、上に南高と聖凛が学区内でのトップ争いをしている。もちろん冬海はそんな上位争いに加われないほど学力に差があるのだが。
    学区内三位で進学校と銘打ってはいるが、実際のところ勉強熱心な生徒などほんの一握りでしかなく、熱心な教師などという奇特な人種は俺の知る限りは存在しない。
    そんな極めて普通なこの高校で唯一よいところがあるとすれば、中途半端の集まりにも関わらず、学業に疲弊し、足を踏み外した学生が極端に少ないことだろう。
 しかし、何も初めから不良品が存在しなかったというわけではない。当時、惰性で高校に進学したは良いものの、ちっとも勉強についていけず、自棄になった
り、スポーツ感覚で喧嘩や器物破損を自慢げに繰り返す生徒はむしろ多かった。少なくとも俺が入学した頃には間違いなくいたし、今もゴキブリのごとく、どこ
かに身を潜めているかもしれない
    だが、俗に言う不良と呼ばれる不貞の輩は一年と少し前にほとんどが絶滅した。恐竜や繁殖能力が低く、環境の変化に適合できなかった動物たちのように。
    無論、隕石による環境の破壊や画期的な法改正があったわけではない。となると、およそ考えうる原因は一つである。
    日常的な軽度の法律違反や暴力の応酬を習慣とする彼らにとっての天敵が出現したのだ。そのどうしようもない一個の存在により、文字通り不良たちは駆逐された。あるいは不良であることをやめるという道を選んだのだ。
    その結果、わが冬海高校はこの国屈指の平和を手に入れた。唯一つ問題があるとすれば、件の天敵が今もなお在籍し、何食わぬ顔で授業を受けていることくらいだろう。
     
*
   
    俺の高校には一日平均して六コマの授業がある。国が決めたひらがな三文字の政策によって一日当たりの授業が嵩増しされた結果がそれだ。
    授業があるのは当たり前だろうとか、義務教育でもないのに進学を選んだ自分の責任だろうといわれればそれまでだが、それほどまでに授業は退屈で、苦痛で、それでいてほとんど無価値なものなのだ。一度学生を経験したことのある人物なら察して欲しい。
    しかし、なぜ今頃になってそんな話をしているのかといわれれば、次の授業が俺個人の中で最も苦痛な授業であるからに他ならない。授業名で言うならば生物。小動物の解剖をしたりするあれである。
   座学が多く、理系の、それも医療系を目指す学生以外にとっては非常に楽な授業として有名だろうと思う。
    ただ、俺としてはそんなことは関係ない。生物が嫌いな理由は別にある。始業のベルと共に入ってくるあの男が生理的に受け付けないのだ。
    そうこうしている間に十分休憩が終わり、チャイムが鳴る。放送がなり終わる事になると、決まってやつが現れる。色のついたワイシャツにジーンズ。その上に白衣を羽織った教師が何も言わずに教団の前に立ち、手始めにクセっ毛の頭を左手でくしゃくしゃとやった。
   「生徒諸君。下らん私語は私以外の授業でやれ。生物の授業を始める」
    若い生物教諭がぴしゃりと言い放ち、その直後クラス全体が不自然なまでに静まり返る。言うまでもなく他の授業に置いてこのようなことはありえない。教師の指示があるまでは始終無言。指名されればわからなくとも答えることを強要される。
    絶対服従、それがこの授業のルールだということをこの学校生徒なら誰でも知っているのだ。
    軍隊にも似た、行き過ぎた規則。そのことに誰も文句を言わないのは、この生物教師。月読 燦がやってのける暴挙を知っているからだ。すなわち、気に食わない生徒には単位を出さないという無茶苦茶な職権乱用を。
 普通の教師であれば生徒に甘いことが多く。何とか進級させようと多少の温情措置をとろうとするものだが、この月読に限ってそのような例外はない。一度
言ったことは頑として曲げない。気に入らない生徒がいれば、いかにテストで高得点を叩き出そうが、情け容赦なく通信簿に五段階中の「1」をつける。
    恐らくそれは十段階だろうが、百段階だろうが「1」だ。あるいは「0」かもしれない。これが冗談にならないのがこの月読という教師である。
「今日の授業では教科書を使用しない。各自ノートと筆記用具だけを机に出して置け。なお、これから私の話すこと、板書はテストに出題する予定はない。小学
生でも解けるような幼稚な教科書の範囲は各自宿題とする。教科書60〜82ページだ。授業で扱うような価値はないからな」
 月読がすっとばした授業範囲は主に古代の生物に関する部分だった。こいつの授業ではこんなことも珍しくない。これで教育委員会が文句を言わないのは不思
議でならなかったが、楽弥曰く月読は外面がよいらしく、校内でも優秀な教員という評価を受けていると聞く。大人の目はちゃんと見ているようで、大抵節穴だ
という良い例だ。
    ため息でも吐きたい所を必死にこらえて月読を見ると、大きな文字で本日のテーマらしい見出しを書いていた。「超能力と人間の可能性について」と書かれている。
    リズムよく黒板にチョークを走らせていた月読はそこまで書いたところで一度チョークを置き、生徒全員に何とか聞こえる程度の声で言った。
   「貴様らは超能力の存在を信じるか?」
    教師らしくない疑問符で閉じられた文言に誰もが言葉を失う。見出しの時点で不安だったが、そんな突拍子もない質問にもう大人といっても過言ではない俺たちが即答できるわけない。
    さえない反応に痺れを切らしたのか、おもむろに窓際の生徒の名を呼ぶ月読。呼ばれた生徒はこの授業のルールに則り、言われてもいないのに起立して答えた。
   「超能力というのは……その、テレパシーとか透視とかいう力のことでしょうか……?」
    何とか自信なさげに答える生徒。なにか月読の気に障ることを言ってないかと戦々恐々としている。とんだ災難だとクラスメイトの誰もが思っていることだろう。そもそもの質問に無理があるのだ。
    月読は今にも倒れてしまいそうなほど緊張しきっている生徒の名を無機質な声でもう一度口にし、その後にこう続けた。
「貴様ら程度の認識ではそういう類のものが思い浮かぶだろうな。テレパシー、サイコキネシス、透視に予言。そのようなものが現実に存在するかどうかと聞か
れれば、それは宗教に過ぎない。つまりは神が存在するか否か。いわゆる悪魔の証明になってしまうので私とて正確な答えは出せないだろう。だが……」
    そこで月読は一度言葉を切り、チョークを手に取る。立たされた生徒はそのままにして何か黒板に書き殴った。
   「超能力をそのような胡散臭いものとは捕らえずに、単純に人知を超える力。もしくは貴様らのような何の能力も持たない人間が逆立ちしても追いつけない力だと置き換えると話は違ってくる。山田生徒。貴様は100メートルを9秒台で走ることが出来るか?」
   「いいえ、無理です」
    即答する山田は確か陸上部だった気がするが、さすがに9秒台は出せない。確実に人間技を超えている。
   「当然だ。もし出来たとしたら貴様はオリンピックに出てテレビの中で必死に走ってることだろう。だがもしも、貴様が血の滲むような努力をし、その上才能があれば10秒代前半くらいの記録は残せるかもしれない」
   「は、はぁ……」
    適当に相槌を打つ生徒の事は無視し、更に続ける月読。
「それが人間における一般的な限界というものだ。世界記録といえども現記録以上のポテンシャルを持つ人間が現れれば簡単に塗り替えられることだろう。しか
し、それが車や飛行機の持つ速度を上回ることは人間の身体構造状ありえない。アニメやゲーム、マンガや小説で登場する魔法やその他異能力でも使わない限り
はな」
    座って良いぞと最後に付け加える月読。指名されていた生徒は魂でも抜けたかのように椅子の上で放心した。
「そのような人間を超えるための力を古来から人々は求め、絶対的な存在としてあがめた。人間には不可能な力、効率性を欲し、人は進化した。魔術や錬金術は
実を結ばなかったが、人は文明を作り、機会を作った。今は貴様らのような高校生にでも適切な年齢と僅かな訓練があれば、車に乗りオリンピック選手以上のス
ピードで移動することが出来る。あるいはほんの数キロしかない銃を手に取り、他の動物を一方的に殺戮できる。これも一種の超能力といえないこともない」
    得意げに詭弁を疲労する月読に楽弥は面白そうにうんうんと首を上下させている。如月はといえばいつもどおり、テストに関係ないといわれても教師の言うことを一つも聞き逃さないように真剣にノートをとっていた。
    俺はといえばいつもどおり聞き流しているだけだ。その他、多くの生徒も月読に見咎められない範囲でちらちらと時計を見ていることから、俺と同じような気分だろうと推測する。
   「話が脱線したが、文明や組織という部分で人間という生物は頭ひとつ跳び抜けているのは貴様らの知る通りだ。本題に入ろう。サヴァン症候群という言葉を知っているか?」
    聞き慣れぬ単語に静か過ぎる教室内がほぼ無音と化す。月読が語尾を半音上げるごとに40名の中から必然的に一人が犠牲になるのだから、目立ちたくないのは当然のことだった。皆が月読を凝視しているようでいて、その誰もが目を合わせていない。
   「……生徒」
    誰もが目を合わせていない中、白羽の矢がたった一人の生徒が名指しで呼ばれた。なんて不運なヤツだ。哀れみの視線を注ごうとするも、その相手が教室内に存在しない。頭上に白羽の矢が深々と突き刺さっていたのは俺だったのだから当然だ。
    俺は仕方なく立ち上がり、出来るだけ感情を乗せないで言った。
   「知りません。興味もありません。着席して良いですか?」
   「駄目だ。無知なクラスメイトともどもみっちり教えてやる」
    口元だけで笑う月読にもはや怒りも沸いてこない。同情の眼差しも疎ましいだけだ。なぜ俺がこのような目にあわなければならないのだと抗議したくも、するだけ無駄だとわかっているので、月読が勝手に満足するまで、周囲の晒し者になることを選んだ。
   「サヴァン症候群というのは主に脳に障害を持った人間に極稀に現れる症状だ。具体的には一度見たものを瞬時に記憶する能力や、過去に見た風景を写真と見紛う精度で書き出すなどが上げられる。映画化何かでも取り上げられたことがあるだろう。雨が降る映画だ」
   「そうなんですか」
    何の関心もないということを隠さずに言う。大体雨が降る映画って曖昧すぎるだろう。たとえ知っていたとしても、答えに迷うに違いない。
    そんな俺の態度も気にすることなく、月読は黒板に見慣れぬ単語を書き綴りながら、話を続ける。
「私は基本的に一般的な超能力を信仰してはいない。しかし、サヴァンに関しては研究結果やその現像例から否定の余地がない。彼らは人間を人間たらしめる最
たる臓器が生まれながらにして、もしくは後天的に異常をきたしている。脳の正常な機能が損なわれていることによって、本来人間が持っているはずの制限が外
れてしまっているとも取れる。見えないものを見るために片目をえぐったシャーマンや、古の人々が神や悪魔に生贄を捧げたのと同じようにだ」
    話がどんどん飛躍し、物騒な言葉が黒板を白く埋めていく。ついていけないとそう思うに十分なくらいに。一コマ50分しかない授業概要に長く感じるのはこの教師の超能力に違いない。
「話を戻そう。サヴァン症候群まで行かずとも、視力を失った人間の聴力が異常に発達したり、耳の聞こえない人間の洞察力が鋭くなるという例は日常的にも見
ることが出来る。人は何かを失うことによって他の何かで補おうとする。その事故、偶発的、先天的な異常を人為的に引き起こすことが出来たとしたら……霜
月。人間はどうなると思う?」
   「それは……」
    超人になれる。そう言いかけた所で、救済のベルが鳴った。大きな舌打ちが聞こえて来る。音の主は一人しかいない。
    月読は出席簿を乱雑に掴み、そそくさと教室のドアの前に立つ。そのまま出て行くかと思ったが、一度だけ振り返り。口を開いた。
   「授業はこれで終わる。病院に用があるのでな。生徒諸君は教科書の予習を。日直は次の授業までに黒板を綺麗にして置け。それでは失礼する」
    喋りたいだけ喋った月読は、教室のドアを乱暴に閉めて出て行った。あたかも興が削がれたとでもいうように。
    教室のドアが閉まった瞬間についさっきまで行われていたわけのわからない授業についての愚痴や不満が爆発した。最初に当てられた生徒には黒山の人だかりが出来ていて、その隣をすり抜けるようにして如月と楽弥が立ち尽くしたままの俺に歩み寄ってくるのが見えた。
   「聖ちゃん、災難だったね。まぁ、授業自体は超面白かったけど」
    ポンポンと方に手をやる楽弥。慰めとも馬鹿にしてるとも取れるその仕草に若干の苛立ちを覚える。災難なんてレベルじゃない。どちらかといえば災害に近いくらいだ。
    そんな風に一応は憐れんでくれている楽矢に対し、如月はといえば開口一番に俺を非難した。
   「聖。わからない、知らないという前に少しは意見したらどうだ? 生物の授業範囲とは関係なかったが、授業は授業だ」
    お決まりの説教だったが、あの授業でまともな返答を期待すること自体に問題があるのだろう。
    俺は言い返す気力もなく、ようやく自分の椅子に腰を下ろす。次の授業は国語だ。今日は久しぶりに図書室でゆっくり休もう。そう思った直後、如月が思い出したように言った。
   「あと、お前。今日は日直だぞ。私も手伝ってやるから早くしろ」
   「あのクソ教師……!」
    結局俺たちが白と濃緑色が半々になった黒板を元の状態に戻すのに、休み時間丸々掛かった。その上に如月の所為で次の国語の授業にも出る羽目になったのもあり、俺は一日不機嫌なまま残りの授業を消化した。